世界の本質
世界は主観でできている。
ここで言う主観とは、「私はこう思う」とか「こう信じている」といった心理的な意見や感情ではなく、あらゆる認識や感受を通じて自己意識が体験するすべての現象のことを指す。
世界というのは一見、外にあるように見えるが、それらはいずれも自己が認識し感受しているものたちだ。
この認識と感受は、すべて主観だ。
客観と呼ばれるものであってすら、その実体は主観だ。
なぜなら、客観というものは、自己の認識と感受と通して見た主観越しの客観だからだ。
そのため、真に客観と呼べるものは存在せず、あるのは主観によって感受する、主観世界のみである。
主観の共有と非共有
一般的に、第三者とも共有できるもののみが真実で、個人的なものは偽りだと片付けられがちだ。
しかし実際にはそれらは等しく自己が認識する世界だ。
だから、第三者と共有できようができまいが、自己にとっては、同じだけの重みを持ち、同じだけの意味を持つ。
それは第三者と共有できていると主観している共有現象か、あるいは共有できないと主観している非共有現象かの差でしかない。
その世界を主観する自己にとっては、等しく同じ重みを持つ世界の情景である。
人も生き物も、それぞれ、実は誰もが思うほど共通の世界を見てはいない。
それは、誰かと同じ夢を見ていると信じるようなものだ。実際に夢の中身を共有しているわけではなく、似た構造を「共有している」と認識しているだけである。
実際には、共有していると感じているものすら、まったく同一の経験を受け取っているわけではない。
それぞれ異なる主観世界を見ているのが基本であり、第三者と共有できていると主観できるものか、そうではないものかという違いしかない。
そのため、共有現象以外は偽物だと切り捨てるようなことは、実際には、世界の8割を見ないに等しいことである。
なぜかというと、実は主観世界には、非共有現象のほうが圧倒的に多いからである。
これは、自己に対しても他者に対しても等しくそうで、自己が認識できないからといって否定するものではないし、他者から否定されるものでもない。
なぜなら、主観世界はそれぞれ異なるもので、実際には私たちというのは、主観世界の中で生きているからである。
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