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輪廻転生の本質

輪廻転生の正体

生死の本質にて説明したように、死んで生まれるというのは実際には、自己意識が意識の断絶と復旧を認識するということだ。

復旧の際には、自己意識が魂として抱えている情報……すなわち魂の記憶に従って、主観世界を再構築する。

これが輪廻転生という現象の正体である。

そもそも、意識があるというのは、主観世界を認識しているという状態であり、意識がないというのは、主観世界を認識していないという状態だ。

だから、意識がまた起こった時点で、主観世界を認識するわけだが、この、主観世界を作るものはなにかというと、魂の記憶だ。

だから、魂の記憶によって、今この瞬間認識する主観世界というものは構築される。

生死を堺に主観世界が大きく変わる理由

通常は、主観世界というのは大きく変わった突拍子もないものに変化することはない。

たとえば夢というものが、ボールがまばらに入った箱だとしたら、箱の中身はまだスカスカなので、そのままでも、中に自由にものを入れることができるだろう。これが、夢が突拍子もなかったり、自由に変えたりできる理由だ。

一方で、現実というのは、ボールがギューギューに詰まった箱のようなもので、箱の中に何かを入れようと思ったら、それが入るだけのスペースぶんのボールを取り出さなければならない。

このように、夢として感じる主観世界と、現実として感じる主観世界というのは、実際には両方とも魂の記憶の影響を受けるものであり、よく似ているけれど、緻密さが異なる。
そのため主観世界というのは、夢よりもずっと鮮明で、情報が緻密に組み立てられているような状態だ。

だから、実際にはつねに魂の記憶から刻一刻と世界は築かれているものの、主観世界の姿としては、つねに連続性があって、辻褄が合っており、世界の姿から大きく逸れることはない

ところが死んだときというのは、自己意識にとっては世界の終わりであり、それというのは主観世界がすっかりリセットされる瞬間である。

だから、主観世界が一度無くなるから、魂の記憶にしたがって新たに再構築されることになるわけだけど、このときはもはや元の主観世界が形を失っているため、連続性が必要なくなる。

ようするに、いったん箱をひっくり返してすべてのボールを取り出してしまった状態が、死として体験される、意識の断絶・主観世界のいったんの終わりという状態なわけだ。

そうなると、いったん世界という箱は空っぽになるけど、手元にはまだたくさんのもの(魂の記憶)がある。だからそれを新たに詰めなおして、再びギューギューに詰まった箱を作る。

これが主観世界が再構築されるという状態であり、それとは生まれる・あるいは発生するという状況で、だからこそ自己意識の認識としては、まったく新しい環境や世界で、人生を始めるかのように感じられる

これが輪廻転生のように感じられる理由である。

天国と地獄も同じ原理

この、ボールと箱に例えた、自己意識が認識する主観世界と、それを構築する魂の記憶についてだが、これは、輪廻転生だけに関わらず、天国と地獄という死生観に対しても、同じ原理で説明できる

つまり、自己意識が死後は天国か地獄へ行くと理解している状態だと、死という断絶を経験したあと、天国あるいは地獄という主観世界が再構築されるという働きが起こる。

ようするに「死後に天国へ行く」という認識自体が、魂の記憶を通じて再構築される世界像を呼び寄せ、その主観世界を“天国”として体験する構造になっている。

ただ、自己意識の理解というのは、そこでの絶対的な幸せまで保証しているわけではなくて、天国らしき主観世界の認識自体は始まるものの、内在している魂の記憶によっては、天国の中にいるのに嫌なことを体験したとかが起こりうる

死後は無だと理解している場合

さらに他の死生観にも触れておく。

自己意識が死後は無だと理解している場合、どういう状態が起こるかというと、意識の断絶のあと、無という状態を形作ることになる。

では、その無は具体的にどういう状態か? というと、いざ無をイメージしたとき、真っ暗で何もない状態をイメージしないだろうか?

無を、真っ暗で虚無的で何もない状態以外で想像できる人はおそらくいないのではないかと思う。

これは無というひとつの状態であり、本当に無いわけではない。
無という状態があるのだ。

つまり、自己意識は真っ暗で何もない状態を体験するようになる

だから自己意識は無という状態――つまり、真っ暗で何もない状態を主観するだろう。

それは自己意識にとって、どれだけの時間感覚か計り知れない。

そもそも時間というのは、この主観世界に変化があるからこそ在って認識できるものでもある。

無の世界には変化はない。

そのため、時という概念すら消失するほど無限に感じるだろう。
ただその世界だけがすべてとなる。

でも、自己意識はそこにあって、魂の記憶もある。

それ故に、その無という虚無の暗闇をずっと認識し続けるし、それに対するさまざまな感情や思考や感覚が働く。

やがて「無は終えることができる」と自己意識が理解したとき、やっと無の状態に断絶が起こり次の生が起こる。

でも、それまではずっと、真っ暗で何もない場所に居続けるということになる。

死は免れられないというより、生は免れられない

この、意識の断絶のあとの再構築という流れは、箱とボールの例えに戻ると、手元にボール(つまり魂の記憶・情報)があるかぎり、自動的に箱にザーッと注ぎ込まれる状態になっている。

これは意志や思考で成されるものというよりも意識自体が抱える自然現象的な性質であり、川が高いところから低いところに流れるのと同じようなものだ。

どちらかというとこれは、真空状態にした箱に穴を開けると、そこへ空気が猛烈な勢いで吸われる現象によく似ている。つまり意識はビジョンに向かって猛烈に吸い寄せられる性質がある

だから、自己意識が魂の記憶を抱えている以上、意識の断絶のあと再び主観世界の認識が始まることは、逃れられない魂の仕組みになっている。

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