この学びの段階においては、とにかく渇望に溢れているはずだ。
それは愛かもしれない。社会的成功かもしれない。富かもしれないし、勉学かもしれない。
得たいものが存在して、それに挑んで手に入れることが魂の課題になっている。
だから努力して手に入れる。
そして所有している状態というのを観察して経験して知り尽くす。
これが課題を越えるために大切なことだ。
この経験が不足している場合、もっと、もっと、とさらなる経験を渇望することになる。
そうなると、この段階が無限に続いてしまう。
するとどうなるかというと、失敗と成功・損失や不足と充実を、延々と繰り返す。
これらの現象は、だんだんと強化されてしまう。
なぜかというと、この経験のために行動したことが、魂の経験として蓄積し続けるからである。
過剰に膨らめば膨らむほどに、現象としての現れ方が大きくなってしまう。
成功するならまだしも損失のフェーズがある。
必ず損失のフェーズは訪れる。
例えば、お金を稼ぐことがやりたいことだとする。
しかし、お金を稼ぐというのは、必ずお金を支払う誰かがあってのことである。
例えば、競争社会で勝ちたいとする。
しかし勝つことは、必ず負ける誰かがあってのことである。
稼ぐということは支払ったという魂の記憶が、勝つということは負かせたという魂の記憶が生まれる。
だから損失のフェーズというのは、どうしてもワンセットになる。
そのため、経験するからには、どこかで手放す段階に入らなければ苦しくなる。
よって、溺れずに観察する必要がある。
観察するためには、まずは求めているものを手に入れる。
その手に入れる過程をしっかりと感じて受け入れて考察する。
さらに、手に入れたあとも、それによって得る経験をしっかりを感じて受け入れて考察する。
これによって経験し尽くしてしまう。
因子が膨らんで反動が大きくなってしまう前に、経験の過程を終わらせる。
これが最善だと私は思っている。
何もわからないで楽しみに溺れるよりも、これが過程の第一歩なのだと知って挑むほうが、経験することが目的なのだと理解しておくほうが、きっと冷静に観察できるはずだ。
しっかりと観察して、そのとき得たもの・失ったもの・苦労したもの・快楽・期待と実際に得たもの等を分析して学ぶ。
これが、この最初のステップを乗りこなすための方法である。
また、この段階で、しっかりと早々に経験し尽くしてしまえたら、ステップ2の手放す段階が、ほとんど自覚しないくらい簡易的なものになる場合すらある。
だから早々に経験し尽くすのは良いこと・魂にとってラクなことだと私は思う。
経験し尽くすこと。
魂は経験すること自体を望んでいるから、存分に挑んで良い。
欲するということは、まだ満たされていないということ。挑むことに価値がある段階だ。
①自分が得たものを耽溺する・絶対視すること。 それを正しく見る目が曇って、必要な経験ができなくなってしまう。
②観察と思考を放棄すること。 これも、必要な経験ができない。
経験が進まなければ、因子が飽和するまで、ずっと、この段階に留まり続けることになる。すると欲求も行動も過激化していくし、損失のフェーズがだんだん過酷になる。
こみ上げる願望を罪悪感で否定して強引に離れること。
これは一見、清浄に思えるかもしれないけれども、魂が納得していないから、どこかで必ず爆発する。
そうすると極端な行為に走りやすいので、願望があること=悪や未熟さとするのではなく、あくまでも体験の課題があるだけだと認識して否定に走るべきではない。
実際、1〜4のプロセスというのは、どこか単一の段階だけにあるのではなく、複数の課題を内在している人は珍しくないため、どこの段階が目立つかで優れている・劣っているなどということは決してない。
そもそもみんな同じ宇宙意識なのだから比較すべき話でもない。