苦の因子を避けることで不幸を遠ざける行動の、第3の方法は「奪取を避ける」こと。
これは道徳的にも法的にも、一般的に「ダメ」と言われていることと重なるから、わかりやすいと思う。
奪取を避けるというのは、つまり、他者のものを盗んだり奪ったりしないことだ。
でも、一般的には法律では、他人から奪うべきではないというところに留まるかと思う。
しかし実際には、他人だけに留まらず、身内や家族に対しても等しく奪ったり盗むべきではない。
さらに、これについても、対象は人間だけではない。あらゆる生き物、動物、虫、魚に至るまで、あらゆるものに等しく適応すべきことだ。
だからたとえば、蜘蛛の巣に止まった蝶を取るとか、アリが運ぶ小さな虫を取るとかも同じことが言える。
これは一般常識的には、ちょっと理解しにくいことになるかもしれない。
けれども、ようするに、このような行為というのは例えば蜘蛛の事例なんかでは、「蝶を助けてあげよう」という善意のつもりがあるかもしれないけれど、実際には蜘蛛にとっては、苦労して得た獲物を理不尽に奪われることになる。だから自己意識の体験としては、『第三者が個人的な正義感で、頑張って獲得した資産を理不尽に奪う』という行為になってしまうわけだ。
蝶の立場からすると、危機一髪を助けられたと解釈できるかもしれないけれども、残念ながら蝶はそんなふうには受け取っていないだろう。
だから自己意識の体験としては、『第三者の善意によって、なんだか体が引っかかったのが取れて動けるようになった』という話になってくる。
この因子としての両者の重さの違いは明確かと思う。
つまり、蝶を助けたつもりでも、それは虫の主観的には助けた因子になりにくくて、蜘蛛から奪ったという因子の影響の方が遥かに大きいというわけだ。
このような負の因子が減るとどうなるかというと、以下のような体験が現れやすくなる。
このような負の因子が増してしまうと、どんな影響を受けやすくなるかというと、以下のような体験をしやすくなる。
答えは、確かにそう感じたら、そうなる側面もあるにはある。でもそれは感情として、それを受け取るからこそだ。
実際には、主観世界に対してなんの関わりも影響も与えなかったわけだから、通常はそのような体験にならない。感情を使って内在化しない限りは。
魂の記憶として深く刻まれるのは、感情面からだと、より強い感情や印象を世界の何らかが受け取ったものに対してほど強く起こる。
それは影響を与えたほどの強さはなくても、ある程度の内在化に対する効果があるのは確かだ。
だから、本来は自分と無関係なものを、むやみに我が事として受け取ることも、因子化という意味においては悪影響があったりするから、やめたほうが良い。
たとえば蜘蛛と蝶の事例だと、蝶という獲物を奪われることが命に関わってしまうのは蜘蛛も同じである。
蝶がかわいそうで蜘蛛が悪いやつだと思ったとしても、どっちが善か悪かを選んでいるのは、人間側の勝手な物差しなのだ。
なぜなら、無関心にされることで困ったり嫌な気持ちになる人が存在する以上、そこに影響力を持ってしまうからである。
一方で、虫や他の動物の場合は、人間に端から期待していない。だから関わりさえなければ因子にならないというわけだ。
その一方で、対象が動物であってもペットのように深い関係があると、期待される役割があるかもしれない。だから、その場合は、無関心に振る舞うことによる因子は発生する。
このような違いがある。